COSMOS 第10号 / 1997年12月発行
価値観を問い直す
前号の「コスモス」では、カザルスと盛平翁の二人が実践した「心と体の解放」の姿に、今後の私たちの合気道稽古の指針が見出せないだろうかと提起した。これに対して、どのようにしたら「心と体の解放」が得られるのですか、との質問があった。道なかばの私に的確な答えを示す自信はないが、参考として自分の経験や感じたこと、学んだことなどを述べてみたい。
日本では古くから人生活動のすべてに於いて「肩の力を抜きなさい」と強調されてきた。古くから言われ続けて来ているということは、それぞれの分野に於いて良くことを成して来た人々が、自らの経験を通して獲得した、心からの言葉であるからだろう。想い出せば、私がこの言葉をよく言われたのは、合気道の稽古や演武の中で上手にやろうとか、強くやろうとか、格好良くやろうとかと意識し、一所懸命やり、しかしながら自分の願望とは反対の結果になってしまったような時である。私たちは本来、誰でも上手くなろうとか、強くなろうとか、格好良くありたいという意識、すなわちある種の向上心を持っているし、持っているべきだろう。しかし、このような意識が「肩に力の入った」状態を招き、かえって向上を妨げ、本来の願いと逆の結果をもたらすようなら、意識の持ち方と実際の動作・行動の関係についても考えてみる必要があるのではないだろうか。
私たちは人間として生まれ、物心つく頃から様々な機会を通じて社会の一員として教育されてきた。制度化された世界での確立された色々な価値観を詰め込まれて成人となっている。だが善悪、強さ、美しさなどの観念も、一見普遍的な意識のように感じられるが、本来文化や時代によって変化するものであって、今持っている意識も実際はその人の置かれた共同体の中でだけ共有されている価値観に過ぎない。そういう価値観を標準とし、それに自分を合わせようと思うあまり、自分の心の働きや身体の動きを束縛してしまっていることがある。こんなとき「肩に力が入り過ぎている」と言われるのだろう。
「心と体の解放」に至るには、このような共同体内価値観に依拠した意識を変える必要があると思う。それは、合気道において「上手になる」とはどういうことか、「格好が良い」とはどういうことかを問い直し、こうあらねばならないという共同体の価値観の外に踏み出してみる試みである。
「心技体一致」という言葉は、稽古や訓練において「心」の動きと「身体」の動きを一致させてゆくことを意味する。しかし稽古の中で、「心」ではこうしたいと思っても「身体」の動きがついてゆかない。「身体」は「心」の動きに抵抗するかのようであり、対立するかのようである。この「心」と「身体」の対立を私が特に感じたのは、今まで持っていた「こうしなければならないとか、こうあるべきだ」というような意識で体の使い方をしたときだった。従って、この対立を克服するには、今までとは別の意識で、「心」の動きと「身体」の動きを稽古を通じて実践的に確認してゆくしかないと思った。稽古の中では、強さも格好良さも求めず、できるだけ力を抜いて、当面の現象に意識を集中する。自分の心の動きを見つめ、身体のバランスを感じながら、相手の動き(対応)から次の自分の動く方向を知り、その方向に合わせることなどを私は試みてきた。身体の記憶が記憶の中で一番根強いといわれる。始めは意識して行い、意識しなくてもできるようになるまで徹底的に続けるしかないだろう。無意識で動けるようになった時、何気なく動いている時、「心」と「身体」の対立のない「心技体一致」の動きに気づき、束縛しているものが何もないことを認識できるのではないだろうか。(1997年12月)